感覚は嘘をつく

 前のブログでクロード・レヴィ=ストロースの記した「悲しき熱帯」の本を取り上げて、その文章を引用しました(じつは前回のブログが、アップする際に途中で切れてしまっており、そのために今回の前半は、少し前回のものと重複します)。

「実存主義の中に開花しようとしていた思想の動向について言えば、それが「主観性の幻影」(新垣)に対して示している好意的な態度のために、この動向は有効な思考のまさに反対のものであるように私には思われた。」

 っと記して、さらに厳しい言葉が続きます。

「個人の心意にかかわる事柄を、哲学の問題と呼ぶに値するものにまでこのように昇格させることは、結局それが、街の娘っ子のおしゃべりにふさわしいような種類の形而上学に終わってしまう危険を、あまりに多く孕んでいる。」

 っというものです。以上レヴィ=ストロース・著「悲しき熱帯」川田順造・訳(中央公論新社・2001年初版)P86 より。

 っとすると、われわれが「感じる」、「感動する」などという行為・・・。すなわち、個人の心意に関わる事柄は下手をすると、街中のミーちゃん、ハーちゃんの駄弁り以外のものにはなり得ない。っということです。

 わたくしが、弟子に指導する際に、業・技を出す時に「感じるな!」、「感じようとするな!」っということは、この「主観性の幻影」とレヴィ=ストロースが記すように、自らの修行の過程によって、「感覚は嘘をつく」と自得したからです。

 しかし日本武道は、日本独自、あるいは日本において飛躍的な発展をみた禅と同じく、鋭利な直観を非常に重要視します。

 「この『直観』って、自分の『感覚の総体』じゃないの?」、「ならば,『感覚』って、非常に重要なのじゃないか?!」っと思われるかもしれません。 この稿続きます。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai