感動と虚構
お前・新垣清のブログでは、武術としての空手を、そしてその形を修行するのならば、まず「感動しろ!」っと言っている。
しかし、さらに「感動だけではダメ!」と言い、果ては感動を動因する「感覚は嘘をつく!」っとしている。
これでは、一体ナニがナンだか言わんとすることが分からん。
記しているお前個人の出鱈目さが、如実に現れるブログで書いて、読者を混乱させるだけだ。っと思われるはずです。
当然です!
だって・・・、ブログを記している本人自体が、そう思っていますもん!
まぁ~、本ブログで記すことは、酔っ払いの戯れだ! っと記せば簡単なのですが・・・(?)。じつはわたくし、珍しく素面です。
っということを明確にした上で、わたくしのチンプンカンプンな議論を進めていきます。
武術としての空手の形にみられるように、人は圧倒的な「位置エネルギー」の存在。また、驚異的な「運動エネルギー」を目のあたりにした場合には、五感がビビッドに反応します。それが無機物であろうが・・・、有機物であろうが、同様です。
それの一つの例が、「感動」と呼ばれる現象です。サルトルの小説の場合は、「不気味」さ、あるいは「嫌悪」であり、それ故に「嘔吐」なる生理作用を誘発したのでしょう・・。
わたくしが形を人前で使う時、いわゆる「演武」するときに肝に銘じているのは・・・。拙い業・技ではあるけれど、この「位置エネルギー」、そして「運動エネルギー」をビビッドに、学ぶ人間に、あるいは観ている人間に感じてくれ! っということです。
さらには、未熟ではあるけど、両者の合体である最大の「力学的エネルギー」を持った業・技を、最小の動きで為していることを、あなたの全身で理解してくれ! っという思いです。
この「感動」とは、直に(この場合は)生身の人間を間近で、見る・観ること。動作が発する音を、聞く・聴くこと。さらには、躍動する(?)身体の起こすバイブレーションを、皮膚が感じる、などなど・・・。下手をすると、汗の匂いまでもが感じられる・・。
っという、上記した「存在自体が持つ、存在感」(わっー、下手な日本語)から、生まれてくるものでしかありません。
そして、この人間が五感が感じる事柄(感覚)からこそが、武術としての空手とその形における修行にとって、最も必要であり重要なことなのです。
なぜなら・・・。人はその圧倒的な存在感を感じたために、そのような空手を自らが行えるようになろうとするが故に、自らが空手の修行を始めるのです。
さらに修行の途中で疑問が沸いた時に、その感動を思い出して、苦しく難儀な修行に堪えていけるのです。
だからこの存在を直に感じること以外は、または直に感じさせる以外の行為は、空手の修行においてはマイナスな面があるのだ・・・。
っと記しました。
しかし・・・、しかし、ですよ。
厄介なことに、わたくし・新垣清は、その舌の根も乾かぬうちに、その「感動だけではダメだよ!」っと言い、なぜなら「感覚は嘘をつく」からだ!っとまで断言します。
なぜか?
それを・・・、前回までのブログで、この個人の「感動」とは、主観性の幻影とも言えるものであり、下手をすれば街中のミーちゃん、ハーちゃんの与太話・駄弁りと同じレベルのものに陥る可能があるのだ。っと、わたくしなりのレヴィ=ストロースの本の解釈を引用して説明しています。
だから・・・。武術としての空手の修行において、わたくしは弟子が業・技を出す際に「感じるな!」、「感じようとするな!」っと口泡を飛ばして叱咤するのです。
さらに厄介なことに、わたくしは「動画」や、「活字」とは、この感動、すなわち直接的な感覚を、他に伝えるための手段でしかない。非常に厳しい言い方をすれば・・・。それは「虚構」っとして良いものだ! っと記しています。
この稿、続きます。
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