怪力乱神を語らず

 前回までのブログで、武術として伝承された沖縄空手とその形を習得したいのあれば・・・まず「感動して、真似しろ!!」 っと、記しました。

 そしてすぐに「真似」が出来ないならば、真似が出来るまで、遣り続ける以外に方法はありません。っとつれない事を書きしました。

 だってブッチャケて言えば、出来る人の真似を、完璧に自分が出来るということは、自分も出来るということなのですから・・・。

 ならば、ここで問題になるのは、その真似が出来るようになる! っという方法論でしかないのです。

 そしてわたくしは、自らの修行の結果として、真似が出来るまで、遣り続けるためには「根性のみだ!」っと、述べる気持ちはありません。

 なぜなら、この「根性論」とは、摩訶不思議な「気」なるものの存在と、その活用を謳っていることと・・・、同様なものです。

 確かに、根気は必要です。でも技術の背景の無い「根性論」などは、武術においては、人生の大いなる無駄でしかないからです。

 さらに、ここで明確にしますが・・・。わたくし所謂「気」の存在は信じていますし・・、感じもします。

 さらに自分の人生において、「気」なる存在を感じたこともありますが・・・。それは非常にプライベートな事ですが、確かに起こったことでもあります。

 ただ、それは武術とは、ゼンゼン無関係の事柄です。君子とは、

      「怪力乱神」を語るモノでは、無いのです!

 では「根性論」では無く、「気」の習得でも無い、完璧に真似の出来る方法論とは、一体ナンなのでしょうか?

 それは端的に言ってしまえば、自らの必要とする情報、知識の習得方法。

 さらに、それとはまったく真逆ともいえる、五感・六感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、皮膚感覚、+それらの総体?))と呼ばれるモノ、すなわち知覚ですが、その

           知覚の遮断によって、

   認識へ直截的に切り込んでいく方法論です。

 わたくしは、このブログを武術として伝承された沖縄空手の再興のために、それに興味のある方々へ、あるいは他人の興味を引くために記しています。

 それと同時に日本語の出来る弟子たちの、指導のためにも記しています。この彼らの為に、修行の方法の糧となる事柄をいま記しているのです。

 そのために、それらの方法論を、次回から段階的に述べて行きます。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai