「セイサン・セイシャンの形」は、右足始動? 左足始動?
この11月に国際沖縄空手道無想会の主催で行われる、
の主題の一つは・・・。
「セイサン・セイシャン(十三)」の形は、
使えるの?
っというものです。
そして答えは、「使えません」っと記しました。
では・・・、「使えもしない形を、なぜお前・新垣清は、自らのセミナーで伝授しようとするのか?」っという当然な疑問が出てくるはずですが・・・。
それにお答えする前に、前回記した、唐手・佐久川の移入したセイサン。
「猫・新垣」こと、新垣世璋の移入したセイサン。
上記の武術としてのセイサンとは異なり、白鶴拳などの世俗の拳法の影響下にあるであろう、湖家家の蔡道場で伝承されていた東恩納寛量師と、上地完文師の移入したセイサンの動画を次回は掲載しますが・・・。
本ブログではその前に、「セイサン・セイシャンの形」の一応の体系化、すなわちシステマタイズを果すための、注意書きを記しておきます。
中国清朝軍、すなわち福建省の琉球館を護衛していたのが、把門(アーナン)、把門官(アーナンコー・アーナンクー)っと呼ばれていた、緑営(漢人部隊)の兵士たちです。
その兵士たちが教練していた、15の形の一つで、三番目にあたるセイサン(十三)の形です。
なお、この「セイサン・セイシャンの形」の完全解明を果す途中で・・・、唐手・佐久川が移入したでろう、15の形の数字の後に存在する、「歩」、「法」、そして「戦」の漢字一字が全て明確になると同時に、なぜそのような比率(案配)になるのか? も明確に理解することが可能になりました。
これらは本ブログで触りを述べるかもしれませんが、詳細は11月のセミナーで解説します(「セミナー来てね!」っと、チャカリ宣伝です)。
次回のブログでセイサンの形の動画を列記する予定ですが・・・、新垣のセイサン。東恩納寛量師のセイサン(弟子の宮城長順師によって、努責作用を導入される)、そして上地完文師の流れのセイサンなどなど、右足を最初に動かす(初動)があるかと思えば、左足を最初に動かすセイサンも存在します。
オリジナルのセイサン(十三)の形の動きが、どうであったのか? っとなると、軍事教練の直移入の時のセイサン。首里の武士たちによって、変革された時のセイサン。それから時代が経て、猫・新垣が移入させたセイサン。中国で緑営が崩壊して、民間拳法の形となったセイサン(蔡道場=東恩納系統)。さらに時代が経って、変化されたセイサン(蔡道場=上地系統)っと混乱した伝承系列があるので、非常に混乱を招きますが・・・。
軍事教練としてのそれは、右足初動であったと思っています。
そして最初(少なくとも空手の歴史上において)に、唐手・佐久川が移入したセイサン(十三)は、首里の武士たちによって、自らの心身文化の思想、すなわち「首里は左から」によって、左足初動に変化されます。
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