今、明らかになる泊手の真実!
前のブログで、泊手の三つの形・・・。
ワンカン(王武官)、ワンドウ・ワンダウン(王套路)、そしてワンシュー(王師父)の三つ形の事柄を記し、かつ一覧表も掲載しました。
思うに・・・、「戊辰の御冠船」(1808年)に乗って冊封使の護衛の軍人としてやって来た、王(ワン)という武官から、泊地域の武士たちが学んだもでしょう。
ワンカン(王武官)っと、呼んでいたのですから・・・。中国清朝軍の、正式な武官であったはずですし・・・。
その形の初動も、唐手・佐久川が移入させた、中国清朝軍漢人部隊(緑営・緑旗営)の把門(アーナン)・把門官(アーナンコー・アーナンク―)たちが行っていた、軍事教練の15の形の平仄とまったく同じです。
これは1756年に、いわゆる「丙子の御冠船」として来琉した冊封使を護衛していた、中国清朝満人八旗(または満州八旗とも・・・)の士官である、クーシャンクー(公総菅)とも初動は同じです。
ですからこの時点で、琉球王国時代に武術として伝承された沖縄空手は、中国正規陸軍の軍事教練であった19の形であったとなります。
これに中国清朝水師(なお緑営の水師【海軍】だと思われます)、のナイファンチ(内帆船・南方拳)の形が加わり、中国清朝正規軍の軍事教練の20の形が、首里・那覇・泊地域の、沖縄の武士たちに国家から、国家への伝達というカタチで伝わっています。
しかし・・・。
泊のあと10の形は、この正式ルートから外れた伝承形態を見せます。
それがチントウ、チンテー、ローハイ、ジイン、ジッテ、ジオンの六つの形と、あと四つの形なのです。
あとの四つの形は、わたくし・新垣清が発見しましたが、いまその存在を再確認中です。
そして、合計10のこれらの形は、中国清朝正規軍の軍事教練では無い可能性が非常に高いのです。
それが、泊手が他の首里・那覇とくれべて顕著な特徴なのです。
これは歴史的にみて、泊地域という、首里と比べると下級武士が大多数であり、かつ港街である。そのために、自らが外洋に乗り出していくと同時に、沖縄周辺で難破遭難した異国人を収容する設備を持つ。
それと同時に、下級武士ながら、首里(すなわち王府)への奉公を許され、かつ当時首里にあった最高学府の「国学}への入門も可能であったという、非常に特殊な環境の影響が大きかったと思っています。
この稿、続きます。
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