セイサン・セイシャン・十三歩・半月の形について・その1

 国際沖縄空手道・無想会の主催します、「第17回、日本縦断セミナー’19、秋・初冬期」において、セミナーの主題は「セイシャン(十三歩)の形」の伝授と、「横の演武線」の存在認知とその活用というものでした。

 「十三歩」の形は、「セイシャン」、「セイサン」と呼称されます。そして、松濤館系統では、「半月」っという名前でも呼ばれます。

 この「十三歩」は、1800年初頭に唐手・佐久川が中国清王朝の漢人の部隊の軍事教練であり、当時の福建省に存在していた琉球館の護衛官、すなわち把門官(アーナン、アーナンコー)たちが訓練していたものを、琉球王国時代の沖縄に移入させたものだと思います。

 そして1800年初頭(1804年か?)に、唐手・佐久川が移入した後も、猫・新垣(マヤ―・アラカチ)こと、新垣世璋が同様の形を移入させました。

 さらにその100年後あたりに、現在の剛柔流の祖である宮城長順師の師匠である、東恩納寛量師が琉球館の近くにあったとされる、湖城家の蔡道場に伝承されていた、世俗化し民間拳法となった十三歩の形を移入させてました。

 現在の半円を描く歩法や、膝を内側に曲げるという立ち方は、その時に軍事教練から民間に流れて、「白鶴拳」っとなった拳法の、姑娘歩と呼ばれる立ち方、歩き方から来ているはずです。

 かつ東恩納師は、近代沖縄への移入後に、形を手を開いた状態、すなわ開手から・・・。コブシを作った状態、すなわち閉手と変化させました。

 人は、通常は手を開いた状態で生活します。コブシを作ったままの状態とは、体育、競技などの、約束事があった上で成り立つものでしかありません。

 当然のことです!

 ですから、開手から閉手への変化は、空手と、空手の形の在り方そのものを、根本的に変えてしまいました。

 さらに、唐手・佐久川の移入した軍事教練としての形には、半円での歩き方や、膝を曲げる立ち方は無かったはずですし・・・。開手の状態は、近代になっても続いていました。

 かつ琉球王国時代の首里の文化として、日本本土・沖縄の様式に従って、左足初動で形を始め、かつ半身を取るという日本剣術によって改変されました。

 東恩納師の弟子であった宮城長順師は、自らが中国に渡った時に感銘を受けた「怒責作用」と呼ばれる、強烈な呼吸法による身体操作を加味します。

 これが現在の剛柔流の十三歩であり、中国の様式と同様で、右足初動で形が始まります。

 上記のように、

沖縄手、首里手の「十三歩」と、新興・那覇手の「十三歩」とは、心身思想・操作が、まるで違うものなのです。

 さらに東恩納師から遅れて、同じ蔡道場で学んだ上地流の開祖である上地完文師が、十三歩を移入させますが・・・。この件に関しては本ブログでは割愛します。