のっぺら坊の形? セイシャン(十三歩)・その3
ナイファンチは、鍛錬形と言われていました。
すなわち、「形そのものの動作には、意味は無い!」。「ただ、武術としての身体作りに用いる重要な形である! っという認識です。
確かに、空手の「形はナイファンチに始まり、ナイファンチに終わる」っということは、真理でしょう。
世界中の心身思想・操作で、
「ナイファンチの形」以上に、重力による「自由落下」の存在と、その利用を顕著に修行できる心身操作は、皆無です。
この・・・。近代に入っての体育・体操化、スポーツ化、エンターテインメント化によって喪失してしまった、あるいはまったく顧みられることがなくってしまっていた、重力による「自由落下」の理念。
その武術として不可欠な、重力による「自由落下」の理念を、ナイファンチの形で徹底的に学ぶことが可能なので、初期の段階でこの形を徹底的に学ぶことで、他の形に移行することが可能になります。
ですから、このナイファンチの形の要求する「自由落下」を理解せずに、あるいは操作出来ずに、他の形をやっても・・・。
それは、武踏。あるいは、武踊にしか成りえません。
だからナイファンチの形は最初に学び、その後の修行が完結するカタチで、またナイファンチに戻ってくるということです。
しかし・・・。
ナイファンチの形には、チャンと機能としての技が存在し、それは当然のごとくに使えるものである。
ってか、ナイファンチの形には、沖縄手、首里手の技の使い方の全てが網羅されているのです。
鍛錬形などっとは・・・、近代化によって体育・体操、スポーツ、エンターテインメント化されてしまったこの形をのみ理解した、まったく的外れな、すなわち技の欠落した、あるいは動作の武術的な意味を理解できなかった人々の、繰り言であるのです。
ただ「現代の空手の形は使えない!」っと、わたくしが孤立無援で一人で声高に唱えていたことが、漸く二十年ほどして少しづつ認知されています。
重力の「自由落下」の概念の無い。あるいは効率よく修行出来ない。そして動作に武術としての「技」」の意味など無い形を学ぶこと自体が武術としての修行から大きく外れたものでしか無いからです。
それはナイファンチの形が鍛錬形と呼ばれたことと、まったく同じ間違いでしかありません。
これに関しては、もう空手家の大部分が、その考えに異を唱えることは無くなったかと思います。
さて、本題の「セイシャン、セイサン(十三歩)」。 または「半月」とも呼ばれる形ですが・・・。
この形も上記のナイファンチと同様に、通常の眼では、あるいは多くの流会派での形の有様では・・・。
際立った「技」と呼ばれる動きを見出すことが困難なために、「この形は、技を学ぶためでは無く、鍛錬形なのだ」っという、いわくありげな説が生まれてきます。
われわれが「セイシャン」、「セイサン」、あるいは「半月」と呼ぶこの形は、伝言ゲームによって技を全て、あるいはその大部分を省かれた・・・。
すなわち、ノッペラ坊にされてしまった形でしかないのです。
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