もし、「首里手」が無かりせば・・!?
中国清朝と大英帝国との間に起った阿片戦争後に、中国清朝軍漢人部隊、いわゆる緑旗営(りょくきえい)(または緑営(りょくえい))は、その軍事力の不備を暴露して、権威を失ってしまいます。
その後に、団などと呼ばれる軍事集団が生まれてきますが・・・。それはこのブログの趣旨から離れますので、何れどこかで説明します。
その緑営の権威喪失後に、軍事教練から世俗に流れて民間拳法となっていた、中国拳法に大きな変化が起こります。
中国南部の福建省では、その変化は白鶴拳と羅漢拳の広範囲における影響です。
福建省の大多数の中国拳法の諸派が、この羅漢拳(らかんけん)と白鶴拳(はっかくけん)の影響下で、変化・変革されました。
中国福建省にあった琉球館を護衛していた、中国清朝軍隊・漢人部隊(緑営)の軍事教練は、その琉球館の側にあったとされる湖城家の蔡道場でも、いわゆる民間拳法として修行されていた形跡があります。
その蔡道場での民間拳法も、当時福建省で大流行していた白鶴拳の影響を強く受けて、徐々に改変されていきます。
その改変の後が、前回のブログで記した、武術として伝承された沖縄空手(沖縄手・首里手・古流那覇手など)には存在しない、心身思想・操作なのです。
当時、福建省を席捲していた白鶴拳などの影響は、近代日本政府下で琉球(王)国から沖縄県となった、沖縄(空手界)にも及んできます。
その第一次の波が、後に剛柔流となった新興那覇手の祖である東恩納寛量師であり、上地流の流祖となった上地完文師です。彼等が中国から移入した武術は、当時流行していた白鶴拳などの影響の強い民間拳法です。
さらに、沖縄県に直接「白鶴拳」が移入されます。
「パップーレン」、「白鶴」、「二―パイポ―」などを移入した、呉賢貴(ご けんき)師などの存在です。
わたくしが、元々は軍事教練が世俗に流れて出来たであろうとしている、民間拳法の白鶴拳の影響は、琉球王国時代の末期、そして近代の空手の活動に多大な影響を与えて、飲み込むまでの勢いを見せていたのです。
それを防いだのは、日本武道(主に日本剣術)の影響を受けて、中国拳法(軍事教練の套路)を改革した、沖縄手・首里手の存在です。
歴史に、「If(もしも・・・)」は、ありません。
しかし、琉球王国に、そして近代化した沖縄県に、もしも・・・「沖縄手・首里手」が無かりせば・・・!?。
我々が、今、修行している空手とは、全て「唐手」となり、日本武道(主に剣術)の影響の皆無な、白鶴拳の分派とも呼べるものとなっていたはずです。
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