泊手の形に、演武線は存在するのか?

 「武士・松村」こと、松村宗昆(まつむら または まちむら そうこん)の手、すなわち沖縄手(おきなわて または おきなわてぃー)、首里手の形には、心身思想・操作において、世界最高峰のレベルを誇る日本剣術の、「正中線」の概念が明確に存在します。

 さらに、形に「演武線」の存在認知とその活用が明確に存在します。ってか、その演武線(前後・上下・左右)の、存在認知と活用は日本武道(日本剣術)をも凌駕していると思っており、わたくしが、武術として伝承された、沖縄空手の心身思想・操作は、世界最高峰であり、唯一無比の存在である! 

 っと、いささか過剰気味に常日頃述べる理由も・・・。それに由来するのですが・・・。

 ただ、前回の日本縦断セミナーで、「演武線(前後・上下・左右)」の存在認知と、その活用を受講された方々は、上記のわたくしの我田引水的、唯我独尊的、またはブッチャケ独りよがりの科白も、「あながち、根拠の無い、アラカキのホラ話だけではないな!?」 っとは、思っていただけたかと愚考します。

 これほどまでに、世界の心身思想的にみても希有な存在の、形における演武線(前後・上下・左右)の存在認知と、活用の方法です。

 人間の身体は、当然のごとく物理的にこの地上に三次元で存在するために、前後左右上下に身体の長さ、幅や、厚みと呼ばれるものがあります。

 これほどまでにマス(質量、あるいは体積)のある身体を、日本武道(主に日本剣術)は厳しい、鋭利な日本刀と同じような、鋭利で厳しい線として把握するために、「正中線」という概念を生み出しています。

 そして三次元の空間をも、鋭利で厳しい線で表す。

 それが、武術として伝承された沖縄空手の形における、演武線(前後・上下・左右)の存在です。

 これは松村宗昆が関わった「ナイファンチ(南方拳・あるいは内帆船の漢字か?)」、「クーシャンクー(公総菅)」。

 そして、「セイシャン(十三歩)」、「ごじゅうしほ(五十四歩)」、さらに、「パッサイ(八十一【戦】)」の五つの形に、顕著に存在します。

 ってか・・・。

 だからこそ、松村は、「武士」の尊称があり・・・。

 ちなみに彼は、生存中から伝説化されており、「生きている伝説」。すなわち、英語で言う「Living Legend」の存在だったのです。

 かつこの「演武線」の存在認知と活用こそが、空手がこれほどまでに普及した、潜在的な理由でもあるのです(この潜在的理由はいつか、ちゃんとしたカタチで述べます)。

 しかし、松村が関わらなかった形。

 すなわち、わたくしが古流・那覇手と称している流れの形、サンチン(三戦)、サイファ(九法)、セイパイ(十八【戦】)、ニセイシ(二十四【歩】)、ウンス―(雲手≒二セイチ(二十七【戦】)、サンセール(三十六【戦】)、セイウンチン(四十五【戦】)。

 続いてルーシャセン(六十三【戦】)、シソウチン(七十二戦)、ソーチン(九十戦)、クルルンファ(九龍法≒九十九法)、スーパーリンペー(壱百零八歩)には・・・。

 この、日本武道(日本剣術)に顕著である「正中線」の概念が皆無です。

 さらに松村の手に顕著である、「演武線(前後・上下・左右)」の存在が皆無です。

 ですから、上記の「古流・那覇手」は、沖縄手では無く、首里手でも無く、「唐手」なのです。

 では清朝軍漢人部隊(緑旗営・緑営と呼ばれました)の、15の軍事教練の形。

 清朝軍満州人部隊(満人八旗と呼ばれました)の軍事教練の、クーシャンクー(公総菅)の形。

 清朝漢人海軍(水師と呼ばれました)の軍事教練の形である、ナイファンチ(南方拳、内帆船の漢字か?)の形以外の形・・・。

 すなわちローハイ、ワンカン、ワンドー・ワンダウン、ワンシュー、チントー、チンテ。

 そして、ヂ(撃の漢字か?)の七つの形を修行の中核としていた、泊地域の武士たちが修行していた・・・。いわゆる

 泊手には、この「正中線」と、「演武線」の存在認知と活用が、なされていたのか?

 これが前回のセミナーまでには、わたくし個人として解明できずにいた部分です。

 それが、今回解けました。