軍事教練としての、「サンチン(三戦)の形」

 一応、クーシャンクー・観空などと呼ばれる形の

 初動の動作とは、相手から襟首を掴まれた時の、解脱方法である! 

っということは、もう読者の方々は理解なされているはずです。

 では、お前(わたくし・新垣清のことです)の言う、クーシャンクーや観空の形と初動が同じと言う、サンチン(三戦)の形の初動とは、一体どのようなモノだったのか? 

っという、当然な疑問が沸いてくるはずです。

 すなわち・・・。琉球王国が崩壊した後、そして福建省に存在した琉球館がその実質的な機能を失い、近隣にあったとされる湖城家の蔡道場で修行された形。

 すなわち・・・。現在のわたくしが新興・那覇手と名付けている剛柔流や、上地流などのサンチン(三戦)の形とは違う形。

 すなわち・・・。1800年初頭(1804年か?)に、唐手・佐久川が導入したと思われる、清朝軍漢人部隊(緑営・緑旗営 (リョクエイ))の琉球館を護衛する把門官(アーナンクー)たちの軍事教練であった15の形の最初の形。

サンチン(三戦の漢字だと思います)の形とは、一体どのようなものであったのか?

 この答えは、歴史を遡ることで、非常に明確になります。

 まず立ち方は、現在のサンチンに見られるような、膝を内側に入れる立ち方ではありません。

 この特殊な特徴のある立ち方は、敢えて言えば「姑娘(クーニャン)立ち」と名付けても良いものであり・・・。下記の「姑娘歩」の際における、特徴な立ち方です。

 「姑娘立ち」、そして「姑娘歩」共に、日本武道にも、そして武術として伝承された沖縄空手にも存在せず・・・。

 門外漢であることを明記した上で記せば、・・・。

 この立ち方を基本としたであろう、白鶴拳を生んだ中国南方地域の、いわゆる南派拳でも特殊であるはずです。

 この辺り、わたくし自身もまだ研究すべき課題が、山積みなのですが・・・。

 「纏足(テンソク)」という清朝時代に漢人文化で流行った、特殊な女性専用の足を奇形にする文化と関連が、あるのかもしれません。

 ちなみに、清王朝を興した満州族にはこの「纏足」の文化は無く、かつ民族としては漢族であるであろう、客家の人々も、この「纏足」の文化は有りませんでした。

 さらに歩法においては、琉球王国時代に、武術として伝承された沖縄空手の歩法とは、近世になって中国南部の福建省で爆発的に流行した、上記の・・・。

白鶴拳の影響であろう、「姑娘歩」っと呼ばれる半円を描いて、膝を内側に入れ動く、「静歩行」と呼ばれるものではありません。

 ちなみに人間は自然な状態においては、この静歩行とは反対(?)の、「動歩行」で歩行します。

これが、「歩み足」です。 

 そして武術として伝承された沖縄空手の歩法は、「歩み足」っということで、動歩行だということです。

 さらに琉球王国時代に修行されたサンチンの形には、激しい呼吸法を使って身体を固める、「怒責作用」というものは、ありませんでした。

 ちなみにこの怒責作用は、東恩納寛量(ヒガシオンナ カンリョウ)・師の高弟であられた、宮城長順(ミヤギ チョウジュン)・師が近代になって中国から移入した身体操作です。日本武道、武術として伝承された沖縄空手においては、「呼吸は隠す!」ものです。

 そして、次の差異は手の位置、または手の形状なのです。

 手は、勿論「開手」であり・・・。クーシャンクー、観空と呼ばれる形の初動と同じく、掌(てのひら)は、前方を向きます(でも、空は観ないよ!)。

 この掌(てのひら)は、その後、内側に向く(すなわち自分の方に向ける)っという方向に変化します。

 現在の上地流のサンチンの手の位置だと、理解されれば良いでしょう。この変化は、蔡道場で、すでに行われた可能性が高いです。

 (または沖縄において)その後に、前方に向いた掌(てのひら)は拳(コブシ)に変化しますが、その際も拳(コブシ)の指側が相手に向いた方法でした。

 その後に、拳(コブシ)の指側が、自分に向く方法となります(現在の、新興・那覇手のサンチンの形の手の形態です)。

 この呼吸法による怒責作用で:

身体を固め

拳(コブシ)を作り

その拳(コブシ)の指側が、自分に向く方法

そして、立ち方は膝を内側に曲げて立ち(「姑娘立ち」?)

 その形状で、「姑娘歩」とよばれる半円を描いて歩行するのが、現在の代表的なサンチンの形です。

 しかし、もうお分かりのように・・・これは1800年初頭に唐手・佐久川が移入して、首里の、そして沖縄の武士たちが学んだ、サンチンの形とは、まるで違うものなのです。