中国拳法の歴史的推移が、分かったかもしれない!

 我が国際沖縄空手道・無想会は、武術として伝承された沖縄空手の再興を、謳い上げて伝承・普及を行っています。

 その制定七形の中で、最古のものは1756年の丙子の年に来琉した冊封使(サクホウシまたはサッポウシ)護衛のコウ(公・洪などの漢字でしょう)という姓を持つ、清朝軍満州八旗(満州人部隊)の総菅の位にあった人物が、移入したものです。

 すなわち現代の空手界で「クーシャンクー」、「コウソウクン」、「公相君」、あるいは「観空」とも呼ばれる形ですが・・・。弊会ではコウを「公」の漢字表記の姓として捉え、「公総菅」の形と漢字表記しています。

 その他の六つの形の内、泊手の「羅漢(ローハイ)」っと、わたくし・新垣清の創作した「江南(チャンナン)」の形の二つを除いて・・・。

 他の四つの形は、すべて1800年初頭(1804年か?)に唐手・佐久川が移入したと思われる、福建省の琉球館を護衛していた、把門官(アーナンコーなどと発音します)たちの、軍事教練の15の形からです。

 ですから、沖縄空手に影響を与え、そして武術として伝承された沖縄空手の再興を、謳う弊会も採用した形とは、すべて満州人が打ち立てた清王朝の軍事教練や、それが民間に流れて世俗拳法となった(羅漢拳・白鶴拳など)ものです。

 そして、その中国拳法を、「武士・松村」を筆頭とする沖縄武士(主に首里)が、日本剣術の影響下にある、心身思想・操作で改変しました。文字通りのハイブリッド化を果し、世界最高峰の徒手格闘の、心身文化と為し得ることに成功しました。

 ここまでは、良いのです・・・。ここまでは、全てと言って良い程に、オーケーなのです。

 私事になりますが・・・。わたくしは、幼少の頃から親しみ、憧れていた沖縄空手の全て、すなわち歴史、技術、伝承経路などをの全てを解き明かして、さらに現在は普及活動に入るまでになっています。

 まことに武道家、空手家冥利に尽きるものだと、全てに感謝する以外にありません。

 ありがとうございます。

 しかし・・・。しかし、ですよ。

 なぜ中国の世俗拳法は、自らが伝承する、套路の内容(いわゆる、脈絡・コンテキストの存在)を、認知する能力さえ失ってしまったのか?

じつは沖縄空手においても、形に存在する脈絡・コンテクストの存在は、わたくしが解明する前まで、150年近くも失われてしまっていました。

 しかし、それは近代化、体育・体操化の際に、意図的(?)に行われたものである! っという意味付けは出来たのです。

 ならば・・・中国における世俗拳法における、套路の脈絡・コンテキストの存在認知の喪失とは、一体ナニが主原因であり・・・。それは、どのような歴史の過程で起こってきのか・・・。

 それが、上記のように武術として伝承された沖縄空手の全てを解明した時に、わたくしの胸中に忽然と沸いてきた思いでした。

 ナゼなのか? ナニが起こったのか? 

 沖縄空手と同じく、体育・体操化の、いわゆる近代化を果そうとした所為なのか?

 中国武術に対しては完全に門外漢のわたくしですが・・・。

 中国拳法が沖縄の空手と同様に、完全なる誤解、曲解の上で、套路を理解したと思っている、可能性は無いのか? 

 などなど・・・。

 それが、どうにか解けたようです。