武術は、「濃厚接触」無し

 国際沖縄空手道無想会の主催により、先日行われたオンラインセミナー二日目の、「ナイファンチで極める首里手の身体操作」と、「空手の歴史から考察する形の意義」に関して記しています。

 そこにおいて、武術として伝承された沖縄空手と、形を・・・。

 打撃系統の突き蹴りのみで、形が形成されてとされている、現代の空手の形の解釈は、完全な間違いである!

 組技系統の投げ、極め、締めのみで、形が形成されているとするのも、完全な間違いである!

 自分に対峙する相手が、四方八方に存在することで、形が形成されているのは、完全な間違いである!

 さらには、 武術として伝承された沖縄空手の形には、そして心身思想・操作には、自分が重しとなって相手の行動を不可能にすることで、業・技が成り立っている、「寝技」は存在しない! と記しました。

 そして日本の武道史においても、寝技の登場は時代が大分近代に入って、殺し合いの割合が極端に減ったあたりから、各柔術流会派の伝書に登場するものであり、一部の例外を除き、主要な業・技としての、寝技は存在しなかった! も記しました。

 なぜなら、寝技のように、自分と戦う相手が密着、いわゆる濃厚接触する場面では、相手の最も原始的な行為である、「噛み付き」、「目のえぐり出し」、かつ「指折り」などの・・・。

 それこそ技とは言えない(?)、原始的(?)。または生理的な人間の行為にのっとった、動作(これらは技と呼ぶのかは、非常に疑問です)を、使うことが可能になり・・・。

 かつ自分が技を相手にかける時も、相手のそれらの行為を考慮に入れなければ為らないからです。

 そのため、これらの行為をOKにした場合の人間の闘いとは、いまわれわれが思っている、総合格闘技などの闘いとは、まったく別なものになります。

 こんな凄惨な場面が続出するモノは、競技、スポーツ、そしてエンターテインメントには、成りえません。

  そのために、日本武道、武術においては例外的なことを除いて、寝技主体の技術体系を、その根幹においた流会派は存在しません。そして、

武術として伝承された沖縄空手の形とは、この競技、スポーツ、そしてエンターテインメントの要素を、まったく取り除いた場面での、究極の徒手による戦いを、前提としているのです!

 これは日本柔術から、近代スポーツの柔道を興した嘉納治五郎・師も、十分承知していたはずです。

 講道館を興した後に、高専柔道(高専とは、旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校のことです)と呼ばれる、寝技を主体とした柔道が一部で勃興した時に、不愉快感を示したのも・・・。

 この高専柔道と呼ばれるものが、嘉納治五郎・師が、自らの武術的背景となる、日本武道・武術の歴史において、例外を除いて本幹では無い、「寝技」を主体としていたからです(文責・筆者)。

 平らな地面、床で、時間無制限で、たった一人の相手を想定して、極論すれば位置エネルギーを運動エネルギーに転換すること無く、ただ自分の身体を重しとして使うという・・・。

 進化の過程において重力の存在する地球上で、一番移動能力の高い、二本足直立歩行をすることを勝ち取った、人類の進歩に逆行するものです。

 さらに武士として、戦場での戦い、あるいは事前に敵対する相手への、ナンの情報も与えられない実際の闘いおいては・・・、

 そのような、運動エネルギーとして移動にも、業・技の活用にも使用する、位置エネルギーを・・・。

 ただ相手を抑え込む、「重(おも)し」として使うということに、非常に不満があったはずですし、自らの武道・武術の心身思想に反するものであったはずです。

 ですから・・・。

 古来の日本柔術から発展した、日本伝講道館柔道が立ち技主体であったと同じく、さらに他の日本武道と同じく、武術として伝承された沖縄空手には、寝技はありません。

 日本武道・武術は、究極の濃厚接触の場面では、相手が四本足歩行の動物と同様に、噛み付くこと。

 あるいは、業・技と呼んで良いのか? どうか? っと甚だ疑問も沸く、指折り。または、目の玉のえぐり出し、などの、その他もろもろの行為が、自分に繰り出されることを完全に考慮に入れた上で・・・。

 その場面で、自分の身体を最大限安全に保ちつつ、業・技を駆使し相手を仕留めます。

 または、そのような場面を作り出だそうということで、業・技が生まれてきたのです。

 そうでなければ・・・。自分の命が、幾つあっても足りませんし・・・。

 武の技術、すなわち武術を学ぶ意味が、まったく無くなってしまうからです。

国際沖縄空手道 無想会 International Okinawa Karate-do Muso-kai