形の所為(せい)に、するな

 空手の形は、使えません!

なぜか?

 われわれ現代の空手家は、体育・体操、スポーツ、レクレーション、エンターテインメント化した空手の形しか、学んでおらず、かつ見ていないからです。


 さらに、われわれ現代の空手家は、近代の西洋心身文化の、スポーツの身体操作しか、学んでおらず、かつ見ていないからです。


 ならば、空手の形が使え無いのは、形の所為(せい)では、ありません。

 使える形を、近代化で使え無いように変革(改悪です!)我々の所為であり、空手の形を使えるだけの、操作を得るための修行を怠ってきた、我々の所為(せい)なのです。


 責任は、空手の形にあるのではありません。

 責任は、われわれ空手家にあるのです。


 わたくしは、体育・体操、スポーツ、レクレーション、エンターテインメント化した、空手の形を否定しません。

 しかし、体育・体操、スポーツ、レクレーション、エンターテインメント化した(のみの)空手の形のみを学んで、そして見て、空手の形は、使え無い!

と、考えること自体が・・・。


 間違いなのだ! 

と気づかなければ、延々と空手の形は使えるのか? どうか? っと自問自答の、無意味・無限な世界に落ち込むだけです。


 一応、ある程度、命がけで空手の形の修行をした身ですので述べますが・・・。

 武術として伝承された沖縄空手の形とは、ホントウに武術の修行をした人間が、自分の全存在をかけて創作したものです。


 ですから・・・。

 あれほどの、深遠さを持ち、崇高さえも持てるものなのです。

 その歴史的推移を理解せず、技術的変化(改悪)を理解せずに・・・。

 空手の形は使え無い! っといことになれば・・・。


 空手の形が、可哀想です。

 それは、そう言っている人間の、無知蒙昧以外のナニモノでも無いのです!


 これらを国際沖縄空手道無想会の主催により、先日行われたオンラインセミナー二日目の、「ナイファンチで極める首里手の身体操作」と、「空手の歴史から考察する形の意義」の講義で述べました。