二つのローチン! 泊手の正道化への道 #1
本当は、国際沖縄空手道無想会の、オンラインセミナーの事柄を記して行かなければならないのですが・・・。
何時もの事ながら発表すること、話さなければ為らないことが多すぎて、話がドンドン脇道へと逸れて行きます。
まぁ~、私を知っている方々ならば・・・。そして本ブログの読者ならば、既にご承知のことだとは思いますが・・・。
ご了承のほどを・・・。
先ず、泊手にはローハイという名前の形があります。
このローハイとは、一応、羅漢すなわち、お釈迦様の高弟たちの尊称だということで・・・?
南派の羅漢拳や、北派の少林拳羅漢拳っという会門派は、中国各地にも数多く存在します。
それが、「どうして沖縄へ ?」っというのは話が長くなるので、他の機会に・・・。
本ブログでは、このローハイには、ローチンっという兄弟形があったが、失伝している(?)っと記しました。
実は、このローチンっと呼ばれる形は、渡山(とざん)流に龍進っとして、ローチンと呼称する形が存在します。
では「失伝では無く、現存するではないか?」 っと仰るかもしれませんが・・・。
あれは、「ローチン」と呼称されていますが、実は違う、「ローチン」なのだと思っています。
話は長くなるので、端折りますが・・・。先ず、私と渡山流との関係を記します。
この渡山流は、開祖は兼島伸助(かねしま・しんすけ)師であり、その跡に金城久裕(きんじょう・きゅうゆう)・師が居られます。
実はこの金城先生は、私の神原小学校時代の五年、六年の理科の先生であり、当時は優等生(?今の私からは全然、想像もつかない)であった私・・・、非常に可愛がれました。更に、この金城先生は、与那原町に住んで居た、私のオジの同級生です。
且つ高校時代の同級生に、渡山流の黒帯が居ました。この男は与那原町から、わざわざ当時は沖縄県一の進学校であった那覇高校まで、市外バスで通学しており・・・。本旨の、渡山流の道場と兼島先生のご自宅(ってか同じ場所)は、与那原町にありました。
そしてこの与那原町は、私の母の実家があり、確か兼島先生の道場は、いまの喜舎場塾の道場をお持ちである、新里勝彦先生の近くにあったはずです(この辺、ウル憶え。更に言えば、なんか「鹿山」っとかいう形(?)もあったのかも・・・? この辺、全てウル憶え。資料探す時間無し=ゴメン)。
なぜ、知っているのか?
兼島先生の道場に同級生の案内で数回尋ねてお会いして、手ほどきを少し受けたからです。
それ以上に重要なのが・・・。成人後に金城先生のご厚意で渡山流の資料を、全てというほどに送って頂いていたからです。
ただ当時は門外不出を謳う、渡山流の事柄を発表することは、金城先生に御迷惑が掛かるということで、私蔵に終わってしまいました。
でもこの渡山流の兼島先生をモデルにした短編小説を記して、私今は無き月刊・空手道(福昌堂)の作品コンクールで入賞し、賞状と賞金も貰いました(ラッキー)。
さて、このローチンの形に話は戻し、簡単に結論から述べます。
泊手において失伝したと言われるローチンと、この渡山流に伝わる龍進・ローチンは別ものであるはずです。
再び、結論を手短に・・・。
渡山流の龍進(ローチン)は、唐手・佐久川が1804年に移入したと思われる、15の形の7番目の形である、三十六戦(サンセーローチン)だと思っています。
伝承の過程で、三十のサンセーの呼称が欠落したのであろうと推察します。
ちなみに、このローチンと、剛柔流のサンセール―、糸東流のサンセール―、そして上地流のサンセール―の形が、YouTube上に載っていますので・・・。興味のある方は、比べてみてください。
形の暗喩と脈絡を理解し、形の構成を追っていけば、「アッ! これらの形は、元は・・・!?」っと、ご理解できるはずです。
実はこのYouTubeの動画は、当時の数多くの沖縄空手家・古武道家達が行った、演武会の一コマなのです。確か、兼島師(そして金城先生も・・・)以外にも祖堅方範・師や、これもまた私の親族である喜屋武真榮など、錚々たるメンバーが登場していたはずです。
このような動画が、YouTube上で見られるということに・・・。
門外不出ということで、当時、一般への公開を断念した私の気持ちと兼ね合わせてみると、なんか複雑な気持ちでもあります。
もう戦後生まれで、沖縄空手界における秘話や裏話などを知っている人間は、私以外には余り居ない(皆無?)っと思うので、徐々にそれらも記していきつつ・・・。
且つ、伝承過程に混乱が見られる・・・。
泊手を整理して、本来の姿、すなわち正道を示して行こうと思っています。
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