糸洲安恒師は、泊手の後継者なのです。泊手、正伝への回帰 #3
エーっと、明治維新後の日本本土と、その政変による影響をモロに被り、王国を喪失してしまった琉球国では、近代化に向けて、武術として伝承された沖縄空手の大幅な変革が行われます。
空手の、体育・体操化、スポーツ化、レクレーション化、そしてエンターテインメント化の始まりです。
その先頭に立ったのが、糸洲安恒・師です。
「近代空手の父」と、私が呼んでいる人物です。
彼の功績が無ければ、空手は現在まで残っていなかったでしょう。
しかし、武術としての沖縄空手の全ては、ここで消滅してしまいます。
そして武術として伝承された沖縄空手を再興しようとした場合には、この糸洲・師の功績が何処まで及んだのかが、最大の焦点・障害になります。
特に泊手においては、その障害が甚大です。
糸洲のローハイ初段、二段、三段っと呼ばれる形があります。
初段は、泊のローハイ、または松茂良のローハイと呼ばれる形の原型となったものです。
そして二段は・・・。
もうこれは・・・。形と呼ばれる形態を、僅かに保っているだけだ! としても、過言には為らないものなのです。
これは首里手・泊手のナイファンチ・ナイハンチ・鉄騎の三段と同じように、鉈で大雑把に切り離され、体裁を整えるために水増しされた、あるいは業・技が省かれて短縮されてしまっています。
この糸洲安恒・師は、「武士・松村」こと、松村宗昆の後継者のように喧伝されていますが・・・。
それは、大きな間違いです。
実は糸洲・師は、泊の城間(グスクマ)の後継者とされているのです。
さらに古流・那覇手(それは、唐手・佐久川が移入した清朝軍漢人部隊の軍事教練の徒手格闘術の15の形が、琉球化・沖縄化を果たせなかったものっということです)の、長浜(長濱)に師事します。
かつ後年には、中国の新興世俗拳法の鶴拳の影響下にあった、中国清朝軍漢人部隊の緑営の15の軍事教練が世俗化して民間拳法となった、湖城家の蔡道場で修行した東恩納寛量師から、指導を受けています。
この東恩納師が帰郷した時に糸洲師は、東恩納師から直に中国の世俗拳法化した蔡家拳法を伝授されており、現在の剛柔流の基本の立ち方である(ナイファンチ立ちとはまったく異なる)、膝を内側に絞るサンチン立ちを習得しています。
その鶴拳の影響を非常に受けた、当時の湖城家の蔡家拳法のサンチン立ちを、糸洲安恒師は、武術として伝承された沖縄空手の基本であり究極の形である、ナイファンチの形の立ち方、すなわちナイファンチ立ちに導入してしまったのです(これは、琉球王国時代の武術としての空手には、存在しない立ち方です←文責・新垣清)。
そのために、糸洲師の影響下にあるナイファンチや他の形は、琉球王国時代に沖縄で修行された武術として伝承された沖縄空手には有り得ない、「サンチン立ち」や「猫足立ち」などの、静歩行で、膝を内側に曲げて、股関節を閉じ、かつ骨盤が後傾する立ち方を取り入れています(これは、琉球王国時代の武術としての空手には、存在しない立ち方です←文責・新垣清)
これらの心身思想・操作(立ち方、歩法)などは、日本武道・武術や、武術として伝承された沖縄空手には、存在しない立ち方であり、世界中の徒手格闘術や武器を使っての格闘術にも存在しない! っとしてもよい、特異な立ち方です。
ここ暫くは、伝承過程に混乱が見られる・・・。
泊手を整理して、本来の姿、すなわち正伝を示して行こうと思っています。
0コメント