泊手と首里手の違い。泊手、正伝への回帰#4

 歴史的経由から、その伝承・道統、そして技術に混乱の見られる泊手のことを記しています。


国際沖縄空手道無想会は、武術として伝承された沖縄空手の再興を謳っていますが・・・。


 その沖縄空手の主なるものは、いわゆる沖縄手、首里手の事です。


 すなわち「武士・松村」こと、松村宗昆が、唐手・佐久川が移入したであろう中国清朝軍・漢人部隊の軍事教練の15の形が、沖縄の武士たちの手によって沖縄化されたものを、さらに自ら学んだ日本剣術(示現流でしょう)の、厳しい身体思想・操作で鋭利にしたものです。


 そして、彼の国王の身辺を守る近習者としての職務から、非常に研ぎ澄まされたモノとなっていくのは、当然のことなのです。

 その言語からうかがえるに・・・。松村宗昆は彼の、後方にはもう琉球王国の国王の身のみがあると言う、それこそ国家の最後の盾としての役割を、この人物は十分承知していたはずです。


 彼こそが「武士」であり、かつ王城の最後の守護者であったとしても過言では無いでしょう!?

 これが首里手であり、沖縄手であり、かつ琉球手であり。

そして中国拳法、中国武術との、最大の違い!としても、過言ではありません。


 その究極の部分が、泊手にはありません。

 しかし、弊会は、最高責任者である私・新垣清自身が、修行時代に泊手の影響も受けており、「松茂良(マチムラ)の羅漢(ローハイ)」っと呼ばれる、泊手の白眉としても良い形も、無想会制定七形の一つに存在しています。

 そのために、ここで泊手の全てを出来る限りに解明していく、義務があると思っています。


 時期的にみて・・・。

 驚くべきことですが、首里手の武士たちは、1700年中頃に移入された「公総管(クーシャンク―・観空)」の形。

 1800年初頭に移入されたであろう、「ナイファンチ(内帆船・南方拳?)」の形。


 そして、1800年初頭(1804年?)に唐手・佐久川という人物が移入したであろうと、筆者・新垣清が予測している「15の形」以外は・・・。

 そして、それ以後は、中国拳法・武術の形を、習得していません。


 なぜか?

 習得する必要性を、感じなかったからでしょう。

 それは時代背景を見て、素手の徒手格闘の武術の必要性が少なくなった。っということよりも・・・。

 松村をはじめとする首里の武士たちは、清朝を興した満州族の得意とする組技(満州相撲=着衣レスリング)を主体とする、中国からの渡来した軍事教練の業・技に、余り興味を持つことが無くなったからです。


 卑近に解釈してみれば・・・。

 これは・・・、日本の剣術を学んだ、俺たち首里武士の心身思想・操作の方が、大清国の徒手格闘術より優れているなぁ~!?

っという思いが、あったはずなのです。


 確かに・・・。

 組技系統主体の、清王朝の格闘術より・・・。

 打撃系統の業・技も付加した、沖縄空手の心身思想・操作。

さらに正中線・演武線を理解して活用できる、武術として伝承された沖縄空手は、それ自体が完成された、世界的・歴史的に俯瞰しても、トップ・クラスの優越さ持つものです。

(ここら辺り、私の意図的な、間違った理論が混入している可能性大=ゴメン!)。


 しかし、清王朝の正式な軍事教練の移入を学んだ首里の武士たちの流れとは異なり、泊手のそれは雑多なモノっと言っては語弊がありますが・・・。

 世俗・民間拳法の、それなのです。

 あるいは下手をすると、当時の清王朝に敵対する、いわゆる反政府軍(だとすると、「太平天国軍」でしょう?)の、軍事教練だった可能性も高いのです。